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移籍を繰り返した遅咲きのエース 鈴木譲【La PROTAGONISTA】

大学時代から競技を始めた、選手としては遅咲きの鈴木譲。
チームミヤタ、愛三工業、シマノレーシング、
そして宇都宮ブリッツェンとトッププロチームを渡り歩いた。
ここでは彼の原点、フィロソフィーにバイシクルクラブが迫った。

■■■ PERSONAL DATA ■■■
生年月日/ 1985 年11月6日生まれ 身長・体重/ 170㎝ 57㎏
スポーツ歴/サッカー 6 年 趣味/ネットショッピング 影響を受けた選手/流郷克哉

宇都宮ブリッツェン 鈴木譲

HISTORY
2004-2005  東海大学自転車競技部
2006    チームユーキャン
2007    チームミヤタ
2008    愛三工業レーシングチーム
2009-2013  シマノレーシング
2014- 現在  宇都宮ブリッツェン

宇都宮クリテで見せた勝負強さ

2016年の宇都宮クリテリウム。エスケープに同調したライバルたちと息を読み合いトレインを組む、身をかがめて風のすきまを縫ってリードを奪う……。どんなに苦しくともスピードを緩めることはない。そして40秒のリードアウトを奪ったエスケープ集団。こうなるとプロトンは追撃を開始、チーム右京のコントロールはエスケープグループとの距離を急激に縮めはじめ、いよいよ吸収間近……この展開にエスケープグループに一瞬の不安がよぎった瞬間、矢を放ったように飛び出す選手がいた。「レースが動いた!」宇都宮ブリッツェンの鈴木譲だ。
猛進する彼に試合巧者のフェルナンデス・アイラン、勝負強い入部正太朗がジョイントし迎えた最終局面、ラストラップを迎えたトップグループを見送るファンの手に力が入った。

高速で展開するクリテリウムを得意とする鈴木譲。独特のフォームからスプリント力を発揮する

高校時代は運動部にも入っていなかった

このロードレースの世界で勝負を任される選手として、最も安定したコンディションを保つのが今回の主人公、鈴木譲だ。
物静かでわすかな愛嬌が印象的だが、闘志があるようには見えない。しかし、自身の人生を振り返ってもらうと、「僕は直感で生きてきたんです」と答えてくれた。「試合での勝負はもちろん、選手を続けていく過程で僕は直感を信じてきました。少し考えれば違う道も選べた。それでも引き下がれない何かがあるのです」
自転車との出合いは工業高校時代の“モノ作り同好会”。自転車制作というテーマに、塗装がはがれた鉄フレームを手に入れた。「ロードレーサーの構造を知ろうと、1冊の自転車雑誌を夢中で読みました。サイズもわからないままに部品を収集、ドリルで穴を空けシートピラーを固定したりと試行錯誤で作り上げた。『アームストロングが使うのはシマノ、コンコールライトのサドル、ハンドルはデダチャイだろう……』と雑誌を見るうちに実績のあるパーツを探し求め組み替えていきました」
トップ選手たちが山岳を駆け上がる姿を自分自身と重ね合わせ、多摩丘陵の坂を短パンで駆け回った。鈴木譲の自転車競技の原点は誰とも接点を持たずに始まった。「のめり込むが飽きっぽい、そんな自分を知っていたけど、自転車だけは感覚が違いました。『プロ選手になりたい……』就職に実績のある高校で、すでに2社の内定をいただいていましたが、競技部のある東海大学を受験しました」

クラブチームで磨いたスピリッツ

初めて参戦する大学競技部のロードレース、頑張ったなりに手応えをつかむもインカレも完走する程度、プロへの登竜門といわれたジャパンカップのオープンクラスでも10位台という結果だった。「我流ではトップの選手たちとの差を埋められない。大学2年の秋、実業団で活躍するクラブチームユーキャンを訪ねました」
ユーキャンは元プロ選手たちが店員として働き、流郷克哉などワークスチーム出身者の現役選手たちも多いクラブ。「ここではトップレベルにいながらも、苦労人とも言える競技人生を送ってきた先輩方に巡り合いました。執念で競技に向き合う姿勢など、彼らに助言を受けながら走れる環境は大きかったです」
大学3年で挑戦した実業団石川ロードで5位に入賞、現在のJプロツアーにあたるBR-1に昇格を果たす。「勝てなかったことが、逆にプロレーサーを目指す上で課題を与えてくれました」
転機は急に訪れた。優勝を目指し出場したジャパンカップオープンクラス。神谷昌彦監督のアドバイスは、「勝てなくてもいいから最初から逃げろ」という言葉。意に反してはいたが、力でひっくり返す自分を信じて逃げ続けた。「この走りをミヤタの柿沼章さんが見ていたことをきっかけに、チームミヤタから声がかかりました。どうやら来期所属予定の選手が、急遽別チームへ行くことが決まったタイミングだったようです」
突然舞い降りてきたプロ契約の話に「こんなチャンスがあるんだ」と躍起立つ気持ちと、裏腹にプロになりたくて苦労してきた先輩方のことが頭をよぎった。「追い続けても届かなかった選手たちの思いを受け継いで僕はプロで走る」プロレーサー鈴木譲は誕生した。

チームの解散とプロを続ける決意

プロデビューとなったチームミヤタは栗村修が監督、鈴木真理をエースに役者をそろえた強豪チーム。鈴木譲は右も左もわからぬままプロの仕事を学ぶ1年だった。「アシストしてもしっかり完走すること」と先輩にアドバイスをもらいレースに向き合った。ところがチームは8月に年内解散を発表した。「プロを続けたい!
ツールド北海道を走り終えたタイミングで愛三工業の中根賢二監督に電話をかけていました。このときの行動力は今の僕にも驚きで、電話も苦手だった自分が『受け入れてもらえるまで僕は電話は切りません!
絶対に切らないでください』と決死の覚悟で電話に耳をあて続けました」
願いは通じた。ところが大学を退学するか休学するのが加入の条件。「それは絶対に許さない」と拒んだ親も彼の自転車に対する真摯な姿勢にいつしか折れていた。大学を中退、愛三工業へ入団が決まった。廣瀬敏、西谷泰治をはじめ、日本屈指のトップ選手をそろえた愛三工業。Jプロツアー初戦をキャプテンの廣瀬敏が制し、リーダーチームをアシストする経験も学んだ。そして再び転機が訪れる。

シマノレーシングでトッププロに仲間入り

「栗村さんがシマノレーシングの監督となり、世代交代を目指し僕を誘ってくれました。2008年のJプロツアーで総合優勝した狩野智也さんをエースに、同期の畑中勇介、島田真琴、村上純平と、これまで一番年下だった環境から大きく変わりました」
この移籍が、現在日本のエースとして走る彼を大きく変えるきっかけとなった。「2009年はトップレーサーとして長年戦ってきた狩野さんが大きく崩れた年。それでもエースを任されプレッシャーと戦う彼の姿勢を日々感じ取っていました。『僕が勝たないと!』時代の過渡期にあるチームで、トップになれずにプロ選手を続けてきた自分を奮い立たせました」
そして、在籍3年めとなる2011年に東日本クラシックでJプロツアー初勝利をあげた。「勝てずに上がってきた自分が本当の意味で勝つためには、全員を振り切る展開しかなかった……」プロとして“自信”が生まれた。
2014年に宇都宮ブリッツェンに移籍してからは明らかにエースとしての走りに変わった。「プレッシャーは自分の問題、自分で解決しなければ突破できない」
冒頭でレースを綴った宇都宮クリテリウム。序盤から飛び出しゴールラインでライバルをねじ伏せた彼の走りは圧巻だった。「東京オリンピックまであと少し、来年は選手としての真価が問われる年。僕はトップで戦っていたい」日本のエースを目指して戦う彼の走りを一戦も見逃せない!

 

REPORTER
管洋介

アジア、アフリカ、スペインと多くのレースを渡り歩き、近年ではアクアタマ、群馬グリフィンなどのチーム結成にも参画、現在アヴェントゥーラサイクリングの選手兼監督を務める。
AVENTURA Cycling

 

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PROFILE

管洋介

Bicycle Club / 輪界屈指のナイスガイ

管洋介

アジア、アフリカ、スペインなど多くのレースを走ってきたベテランレーサー。アヴェントゥーラサイクリングの選手兼監督を務める傍ら、インプレやカメラマン、スクールコーチなどもこなす。

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