荻窪圭のマップアプリ放浪「『どんな出世魚も真っ青』。大都会『新宿』は、こんな場所だった!」
荻窪圭
- 2020年12月23日
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内藤新宿から新宿新都心への大出世
『新宿』ってすごい地名だと思う。その出世っぷりもすごいし、地名のアバウトさもすごい。
新宿の『宿』は『宿場』の宿。江戸時代、街道に設けられた『宿場』で、普通は『板橋宿』とか『品川宿』のように『宿場のある地名』+『宿』になる。それに比べて『新宿』は『新しい宿場』以上の何もあらわしてないからね。それなのに超メジャーな地名……しかも、戦後は『区名』にまでなっちゃったのだからどんな出世魚も真っ青の大出世だ。
というわけで、今回はその大出世した『新宿』の話。今、西口再開発で盛り上がっている新宿だ。
まずは今の新宿エリアの地図をいつもの『スーパー地形』で。その上に、昔の主な道筋や古くからある寺社など歴史ポイントを書き込んでみた。
新宿になる前の古地図を発見
『新宿』は『新しい宿場』。つまり、最初はなかったのだ。
徳川家康が江戸に入ったのが1590年。1603年に征夷大将軍になり、五街道を整備。甲州街道最初の宿場である高井戸宿が1603年に開設されている。
そこは江戸から四里もあって遠すぎるということで新しく宿場が作られたのが1699年のこと。江戸時代になって90年以上経ってからだ。
じゃあ、新宿ができる前の新宿じゃない新宿はどうだったか。国立国会図書館デジタルコレクションに『正保元年』の江戸絵図(江戸時代後期の写本)を発見。1645年なので新宿のはるか前だ。
東の方にある『長善寺』は今の『笹寺』で同じ場所にある。
黒い色が『谷地』で、今の新宿御苑の池にあたる低地もちゃんと描かれている(あの池は自然の地形なのだ)。
追分と書いて丸く囲ったのが今の新宿三丁目の交差点。甲州街道と青梅街道が分かれる場所である。
青梅街道を西へ行くと淀橋で神田川を渡る(ヨドバシカメラの淀橋だ)。その向こうは描かれてないが、端に五重塔がある。これが中野の宝仙寺。実際には三重塔だが、わざわざ描かれるくらい有名なランドマークだったのである。
で、この『のちの新宿』あたりをよく見ると、『内藤弥三郎下屋敷』『久世三四郎与力』だらけである。
内藤弥三郎は三河時代からの徳川家康の家臣で、家康が江戸に入ると、この辺り一帯に広大な敷地を得た。甲州街道は幕府に何かあったとき将軍が甲州へ逃れるためのルートという大事な役割もあり、信頼できる譜代の家臣を置いたのだ。ついでに言えば、いきなり広大な土地を与えられるくらい何もなかったのだ。
久世三四郎は百人組と呼ばれる鉄砲組の頭。
まあそんな場所だ。
今の新宿駅は追分のちょっと西。地名でいうと『角筈』(つのはず)。今はない地名だけど、バス停(角筈二丁目)や施設名(角筈地域センターとか)に残ってる。
新宿が内藤新宿になった頃
そんな田舎に宿場ができた。
内藤家の土地の一部を使って設置されたのでその名は『内藤新宿』と呼ばれた。地名じゃなくて人名がついたのだ。もし地名をつけるとしたら『四谷新宿』だったろう。
その頃の江戸絵図を見つけた(国立国会図書館デジタルコレクションより)。さすが国会図書館である。
内藤新宿ができたばかりの1699年の江戸大絵図。地味だけどしっかりした地図で、よく見ると『此邊内藤宿ト』(「この辺内藤宿という」の意味)と書いてある。大体新宿一丁目で丸の内線の新宿御苑前駅あたり。
太宗寺(今でも同じ場所にある)が描かれているので場所は特定しやすい。甲州街道南側の『内藤タンゴ』が『内藤丹後守』で信州高遠藩内藤家の屋敷だ。丸々今の新宿御苑。
追分には『二本榎追分』とある。目立つ榎が2本あったのだろう。
だいたい街道が分かれる交通の要衝は人々が集まるもので、そこも新宿で一番賑わった場所。今その交差点角にあるのが『伊勢丹百貨店』。伊勢丹の斜向かいにある歩道にはここが追分だったと示す解説が埋め込まれている。
はじめて新宿に来たとき「なぜ三越(当時)や丸井や伊勢丹は駅前から離れてるんだろう」と思ったものだけど、そもそも中心はこの辺だったのだ、と思うと納得なのである。
内藤新宿はその後、廃止されたり、また復活したりしつつ、徐々に歓楽街への萌芽を見せつつ、明治になる。
いよいよ我々が知る新宿が近くなってきた。
鉄道ができて今の新宿が始まった
1885年(明治18年)、鉄道が開通し、新宿駅ができる。元々の新宿からちょっと西に外れた、『角筈』だ。これを機に『新宿』と聞かれてイメージする場所が、かつての内藤新宿から今の新宿へ移り始めるのである。
『東京時層地図 for iPad』という古地図アプリにちょうど鉄道が敷かれる数年前と、敷かれた20年くらい後の地図が収録されていたので並べてみた。
駅ができて新宿は発展を始める。駅前の新宿高野(タカノフルーツパーラー)が明治33年、カリーで有名な中村屋が明治42年、天ぷらの船橋屋が明治19年と今でも同じ場所で営業している老舗がスタート。
この時点ではまだ田舎駅だったが、急激に発展したのは大正12年の関東大震災以降。関東大震災では下町、つまり低地に大きな被害があり、山手、つまり台地上は比較的無事だったので東京西郊へ引っ越す人が増え、新宿はその玄関口として発展したのだ。
大正13年には天ぷらのつな八、昭和2年には紀伊國屋書店、昭和5年には新宿三越、昭和6年にはほてい屋、昭和8年には伊勢丹とオープン。
伊勢丹はほてい屋の隣接地にあり、のちにほてい屋を買収して建物を繋いだ。
その頃の新宿の写真が国立国会図書館デジタルコレクションの『大東京寫眞帖』にあったのでどうぞ。
何がすごいって、今でも同じ場所で営業している明治~昭和初期に創業した老舗がいくつも残っていること。伊勢丹に至っては建物もそのままだ。
やがて戦争が始まり、戦争が終わり、高度成長期が始まり、浄水場のある西口に手が入れられる。
1962年に小田急百貨店(今の小田急ハルク。ビックカメラが入っているビル)がオープン、1964年には京王百貨店新宿店、1966年には新宿地下鉄ビルディングが完成して、先日再開発のために閉店した『メトロ食堂街』がオープン。1967年には小田急新宿駅ビル(小田急百貨店)が完成し、今の新宿駅西口の原型ができたのだ。
その頃の新宿を見てみよう。この連載では、『flick!』なので、ネットで閲覧できる古地図や地図アプリを使ってきたが、今回は特別。荻窪圭所蔵の高度成長期新宿歓楽街図だ。
そして1965年に淀橋浄水場が廃止され、1971年に最初の新宿西口高層ビル『京王プラザホテル』が開業。新宿新都心と呼ばれる高層ビル街が作られ、1991年に都庁が完成するのである。
新しい宿場だった『新宿』はとうとう『新しい都心』に進化しちゃったのである。
今、新宿駅西口の再開発が始まって、更なる飛躍をしようとしているけれども、地下鉄ビルも小田急も京王も、新宿地下鉄ビルディングも50年以上経っているもの。半世紀経てば建て替えも止むを得ないとも思うし、昭和遺産として残って欲しい気もするし(ビルの意匠に昭和の香り漂ってるのも良い)、複雑である。
今回紹介した地図アプリは「スーパー地形」と「東京時層地図 for iPad」
「スーパー地形」
『カシミール3D』を開発したDAN杉本氏が手がけた地図アプリ。地形や各種地図を重ねて見られる他GPSログ機能もある。
「スーパー地形」
販売元:Tomohiko Sugimoto 取材時のバージョン:4.8.0
価格:無料(App内課金、機能制限解除980円)
■App Storeで「スーパー地形」をダウンロード
■Google Playで「スーパー地形」をダウンロード
「東京時層地図 for iPad」
明治から現代までの時間を軸に都市の変遷を知ることができるiPad専用アプリ。東京、川崎、横浜の、明治から平成の時間を切り換えられる。
「東京時層地図 for iPad」
販売元:Japan Map Center, Inc.
取材時のバージョン:1.2.1
価格:2580円
■App Storeで「東京時層地図 for iPad」をダウンロード
■Google Playで「東京時層地図」をダウンロード
(この記事は『flick! 2020年12月』に掲載された「荻窪 圭のマップアプリ放浪」を再編集したものです)
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