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荻窪圭のマップアプリ放浪「乗降人数ランキング上位ランカー『池袋』は 130年前は農地だった?」

池袋駅周辺は何もない農地だった

新宿・渋谷ときたら次は『池袋』だよな、と思ったのである。でも歴史や地形って文脈で池袋が出てくることってほとんどない。新宿には甲州街道と青梅街道が走り、宿場もあった。渋谷は大山道が通り中世には渋谷城もあったし、渋谷川が作った谷地形も魅力的だ。

池袋はというと、特に大きな街道も通ってないし(実は鎌倉街道が通っていたのだけどそれはほとんど知られてない)、池袋不動みたいな著名な寺社もない。東に西武があって西に東武があるのが池袋の特徴だ、ってのもなんだかアレだ。

池袋の今の地形図。池袋西口から北に『池袋本町』があり、谷に囲まれてる。ここに注目してみた。

そもそも池袋ってどんなところだったのか、と江戸時代の地図を探してみた。今回使うのは『国際日本文化研究センター』(日文研)のサイト。ここの『所蔵地図データベース』(https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/)は東京の古地図が充実しているのだ。江戸時代の地図ならこの連載で何度も紹介している『国立国会図書館デジタルコレクション』がいいけど、明治以降の東京の地図となると、日文研の方が揃っているのだ。iPadでの操作性もいい。

で、見つけたのが江戸時代末期、1850年の『御江戸絵図』。『池袋村』という表記がある……んだけど、いやもうどこだかさっぱり分からない。とりあえず大きな寺社も大名屋敷も何もない単なる農村って感じだ。江戸時代の江戸大絵図(江戸府内を大きな1枚の絵図にしたもの)は、江戸城から離れるに従って四角い紙におさめるためか歪んだりずれたり縮尺がデタラメだったり間違いがあったりするので解読は難しい。

1850年の江戸絵図から、池袋周辺……だけどぐにゃぐにゃでどこなのかよく分からない。近くに雑司ヶ谷村や板橋宿が描かれてるが池袋村はほぼ農地だ。『国際日本文化研究センター』所蔵。

そもそも正確な位置を探すのが大変

正確な地図が欲しいよねと言うことで、明治25年(1892年)の地図を見つけた。池袋を鉄道が通ったのが明治23年。当時は日本鉄道品川駅線で、品川駅と赤羽駅を結ぶ『し』の字型の路線だった。東京駅と上野駅がまだつながってなかったので、東海道線の品川駅と東北本線の赤羽駅をつなぐ路線として敷かれたのだ。今だと、品川から池袋までの山手線と池袋から赤羽までの埼京線をつないだ路線。

その年、目白駅と板橋駅は開業したのだが、池袋駅は影も形もなかったのである。だがもう地図に池袋村はある。山手線の西側一帯だ。今、池袋駅があるのは蟹ヶ窪と書いてあるあたりになる。

見事に何もないですな。

『東京全図』(1892年)より明治25年、右上に『板橋停車場』は描かれてるが、池袋駅はまだない。この数年後、駅がつくられる。『国立日本文化研究センター』所蔵。

池袋本村へ行ってきた

あるとき、池袋村ってそもそもどこが中心だったのか気になって調べたことがある。現代地図を見ると、池袋駅を中心に池袋・東池袋・南池袋・西池袋・上池袋、そして北の方に池袋本町がある。この『本町』があやしい。わざわざ『本町』とつけたトイウコトハ、元々の集落がそこにあったんじゃなかろうか。さっきの明治の地図で見ると、そのあたりはちょっと太い道(今の川越街道(国道254号)の旧道)が通っていて、道沿いに『氷川社』がある。この氷川社、江戸時代は池袋村の鎮守だった。

気になったのなら行ってみるべし。

池袋西口から少し北へ行くと、北に向かう旧道(今のへいわ通り)がある。池袋らしい歓楽街から少しずれた場所だ。

この『へいわ通り』が旧道。明治25年の地図の『池袋村』の池の字のすぐ右を南北に走る道だ。

旧道を北上していくと徐々に繁華街っぽさが弱まり、国道254号を越えて右にゆるやかに曲がる道に沿うと丁字路にぶつかる。それが国道254号の旧道で、江戸時代は川越街道としても使われていた道だ。

旧道ならではの古い商店がところどころにまだ残っていて、駅前の雑然としたビルの谷間から旧道らしい商店街へのグラデーションがなかなか楽しい。

川越街道の旧道を北上すると右手に長い参道の氷川神社があらわれる。

池袋駅からずいぶん歩く(実は最寄り駅は東武東上線の『下板橋駅』なのだ)が、こここそが池袋の鎮守。かなり立派な神社だ。

神社の創建は不明だが、戦国時代の文献に『池袋』という地名が出てくることからその頃にはあったんじゃないかと思う。きっとこのあたりが池袋の発祥の地だ。氷川神社のあたりは三方を谷に囲まれており、『袋』には『水に囲まれた土地』『行き止まりのところ』という意味もあるので、それにも合致する。

というわけで、池袋は池袋村の南の端っこに作られた。池袋駅ができたのは、日本鉄道品川線を途中から分岐して田端駅までつなぐ支線が作られたときだ。

もともと目白駅から田端駅へつなぐ予定だったが、地形的な問題から分岐する位置が少し北にずれ、池袋駅ができたのである。明治36年(1903年)のことだ。大正時代になり、大正3年(1914年)に東上鉄道(東武東上線)の池袋駅が西側に、大正4年(1915年)に武蔵野鉄道(西武池袋線)の池袋が東側に開業し、畑の中の駅がターミナル駅になるきっかけができる。

本町から離れた駅が発展する過程を地図で見る

『東京市及付近番地入地図』(1916年)はちょうどそれらが開通した頃。

池袋停車場の東に『巣鴨監獄署』があるが、これは今のサンシャインシティ。サンシャインシティといえば池袋の象徴だが、江戸時代は『巣鴨村』の一部、その後『西巣鴨町』になったので、できた当時は巣鴨の一部だったのだ。そこからもまだ池袋の存在感が弱かったことが分かる。

大正時代になると西口に豊島師範学校(のちの学芸大学)や立教大学ができて徐々に発展してきたが、まだ明治通りもなく駅周辺は混沌としている。

『東京市及付近番地入地図』(1916年)より池袋停車場から何本もの線路が延び始めた頃。氷川神社あたりに『本村』とある。『国立日本文化研究センター』所蔵。

戦後の高度成長期から急激に発展した街

決定的になったのは戦後の高度成長期。1960年の東京都区分詳細図の豊島区があったので見てみたい。今の地図と比べながら見ると楽しいのだ。

東武東上線池袋駅の横に『東横百貨店』(今の東武デパート。なんと最初は東横百貨店だったのだ)、東口には西武デパート。その北に丸物(今のPARCO)、向かいには三越がある。

巣鴨監獄は戦後東京拘置所になった。

その後、地下鉄丸の内線が開通し、東横百貨店が東武デパートになり、丸物がPARCOになり、東京拘置所が廃止されてサンシャインシティとなり、今の池袋に近づいていくのである。

『東京都区分詳細図豊島区』(1960)より1960年の池袋。デパートができはじめ、道路もある程度つながり、今の池袋に近づいてきた。でもまだ東京拘置所がある。『国際日本文化研究センター』所蔵。

かくして最初は駅すらつくってもらえなかった池袋が130年で乗降客数がJR東日本の中で新宿に次いで2位、東京メトロの乗降人数ランキングではトップ(どちらも2019年)になるのだからすごいもんである。

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PROFILE

荻窪圭 

flick! / ライター

荻窪圭 

老舗のIT系ライター、デジカメライターなるも、趣味が高じて『古地図と地形図で楽しむ東京の神社』(光文社知恵の森文庫)など歴史散歩本執筆や新潮社の野外講座『東京古道散歩』講師なども手がける。 https://ogikubokei.blogspot.com/

荻窪圭 の記事一覧

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