荻窪圭のマップアプリ放浪「山あり谷あり、海まであった『上野』は、さまざまな歴史探訪に夢が膨らむ場所」
荻窪圭
- 2022年02月23日
INDEX
その土地の地形から想像するのも面白い!
あるとき、地形好きの友人と江戸城の立地の話をしていたときだと思うのだけど、彼が突然「ぼくは上野にも城があったと思うのだよね」と言ったのである。そういう話はないのだけど、確かに、言われてみれば城があっても不思議じゃない地形をしているのだ。
上野から谷中の一帯は細長い半島状の地形で、西と南には不忍池と川が作った谷地があり、東は広い低地(東京低地)で縄文時代には海だったところだ。上野の東側の崖はかつて海が削った段丘崖なのである。そして北は細長い馬の背のような尾根。四方のうち三方が崖という城とか神社とか古墳とか作りたくなるような立地なのだ。
というわけで『スーパー地形』の出番。上野を中心にちょっと広い範囲を入れてみた。西日暮駅あたりがめちゃ狭くなった面白い地形なのがわかると思う。
上野を訪れて地形を味わおう
地形を気にして上野を訪れる人は少ないと思うけど、不忍池や上野広小路方面からアプローチすると絶対に階段を上らないとたどり着けないことが体感できるはず。南から長くて広い階段を上りきると、そこに西郷さんの銅像が待っているという仕掛けだ。
JR上野駅からのアプローチはややこしいが、実はこの駅舎、昭和7年竣工のものが現役で使われているのである。東京駅のように派手ではないけれども、戦前の駅舎と思って中を見ると確かに歴史ある風格がある。
で、上野の中央改札は1Fにあるのだが、今は上野公園に直接出られる公園口の改札が3Fにあり、高低差をまったく意識せず動物園や博物館や美術館へ行けちゃうのである。でもまあ上野は高台だ、ってのは覚えておいて欲しい。
上野の寛永寺は京都に憧れていた?対抗心を燃やしていた?
江戸時代、そんな上野台地は江戸城から北東の、ちょうど鬼門にあたる方角にあり、ほどよい高台であり、江戸を護るには良い場所ということで天海大僧正が幕府のために寺を建立した。
それが東叡山寛永寺である。モデルとなったのは、京都の北東にあるあの有名な比叡山延暦寺。比叡山を摸して東叡山。延暦寺の延暦(天台宗を興した最澄が比叡山に寺院を建立したのが延暦七年)、に対して寛永寺は寛永(寛永二年に創建)。
さらに不忍池。池自体は昔からあったのだが、それを琵琶湖に見立てて整備し、琵琶湖の竹生島にある弁財天を摸して、不忍池にも島を作って弁財天を置いた。寛永寺はミニ延暦寺で、不忍池はミニ琵琶湖だったのだ。
で、寛永寺は徳川家の菩提寺として、五重塔が建てられ、大仏も建てられ、徳川家康を祀る東照宮も建立され、発展を遂げた。
だがしかし、それも幕末まで。幕末、江戸城の無血開城は実施されたものの、旧幕府軍はそれに逆らって決起し、寛永寺に立て籠もったのだ。
最後には砦として、あるいは城として使われた寛永寺だったが、新政府軍の戦い(上野戦争)で焼失し、明治になって寺域は大幅に縮小され、境内は官有地となって公園に指定され、大正13年に東京市に下賜されて『上野恩賜公園』となったのである。
上野動物園一帯は史跡の宝庫なのだ
明治政府は神仏分離を推し進め、国家神道を中心にしようと考えたので、徳川系の大きな寺院は冷遇されたのだ。でも、よく見ると上野戦争で全部焼けたわけじゃない。
まずは清水観音堂。実は京都の有名な清水寺まで模していたのである。不忍池を見下ろす崖にミニ清水寺のように建っている観音堂は元禄時代のもの。実はすごく古い。当時からここは花見の名所だった。
上野には大仏まであったのだ。だが関東大震災で頭部が落下。再建の目処がたたないまま、第2次大戦時に胴体が金属資源として軍に供出されてしまったため、今は顔だけが残っている。江戸時代前期からある大仏だ。
3つめは五重塔。1631年創建だがいったん焼失。1639年に再建されたものが今でも建っている。もともと上野東照宮の一部だったが、明治時代に神仏分離が行われた際、東照宮は神社だけど五重の塔は仏教建築ってことで、寛永寺に移管。昭和33年に東京都に寄贈され、上野動物園の一部になったのである。
4つめは上野東照宮。1627年創建。今は1651年に徳川家光が造営した唐門と社殿と透かし塀が残っている(数年前に修復を行ったので、今は金ピカである)し、当時の銅や石の灯籠、1633年の鳥居など江戸時代前期のものがかなり残っていて史跡好きにはたまらない。
古墳時代からの歴史ある大地だった
では江戸時代より前の上野はどうだったのか。室町時代は『忍岡』と呼ばれていた。忍岡なのでその下の池は不忍の池である。さらに上野と浅草の間には千束池という大きな池があった。2つの池に挟まれていたのである。
1645年の江戸絵図を見ると、まだ千束池があるし、不忍池もちゃんと整備されてない。寛永寺もできたばかりで描き方が乱暴だ。まだ開発中だったのだろう。
室町時代に書かれた『北國紀行』に『忍の岡』に『五條天神』が鎮座していたとある。その場所は上野公園の摺鉢山古墳の上。実は上野には古墳群があったのだ。
江戸時代になり、寛永寺が造営される際に、五條天神は上野台地下に遷座し、摺鉢山には清水観音堂が建てられた。観音堂も元禄時代に現在地に移築。今や古墳だけがぽつんと残っているのである。
さてその五條天神。天神様といえば『菅原道真』だけど、ここの主祭神は大己貴命と少彦名命。医薬祖神の神様だ。創建は日本武尊というが、それはまあおいとくとして、そもそも五條天神といえば京都の『五条』にある平安時代初期に創建された神社で、祭神は少彦名命と大己貴命と天照大神であるからして、平安時代〜室町時代のどこかで京都から勧請されたと考えるのが自然かと思う。今は不忍池に面した斜面に昔からそこにあった花園稲荷神社(穴稲荷)と並んで鎮座している。
とまあ、上野といえば博物館と美術館と動物園と桜の名所という身近な行楽地と思われているのだけど、古墳時代からの歴史ある台地だったのだ。訪れたらぜひ史跡散策もしてほしい。
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