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荻窪圭のマップアプリ放浪「近代高層ビルの合間に一角だけ凹みのある『大手町』」

江戸城大手門のすぐ前に広がる町

現在の大手町。大手門のすぐ近くに将門塚がある。意外な場所だ。『スーパー地形』より。

今回のお題は『大手町』。なぜ大手町なのかというと、江戸城大手門のすぐ前に広がる町だから。明治初期に付けられた町名だ。

大手門というのは、城の表玄関。基本的に大名が登城するときはそこから入っていた。大手門から中に入り、さらにクネクネと歩いて(防御上いろいろと回り道することになってるのだ)江戸城本丸に至る。一度行ってみるとよい。

かつての江戸城は今の皇居だが、本丸一帯は『皇居東御苑』として一般開放されているのだ、無料で。しかも皇居の御苑であるから芝生もきれいで広々としててめちゃ気持ちいい。特に大手門の内側から見る大手町なんか、江戸と現代が重なって不思議な感じがするのでおすすめだ。

大手門の中から見た大手町。江戸時代の門と高層ビルが同時に存在するタイムスリップ感がたまらない。2015年撮影。

丸の内から大手町一帯は、もう地図が追いつかない

で、その大手門のすぐ近く歩いて1~2分のところに『Otemachi One』がある。複数のビルが並んでたこの一角を一体化して再開発し、三井物産本社ビルとOtemachi Oneタワーの2つの高層ビルが並んで2020年に竣工したのだ。丸の内から大手町一帯は最近どんどん超高層化しているからね。もう地図が追いつかないレベルで変化が激しい。

で、Otemachi Oneの三井不動産のプレスリリースを見ると、一角だけ凹んでるところがある。この凹みは何なのか。

実はそこ、『将門塚』という、再開発でもとてもつぶせない史跡があるのだ。

Otemachi Oneの画図を見ると一箇所だけ不自然に凹んでる。三井不動産プレスリリース(2016年6月8日)より。

将門塚は平将門の首塚

話は1000年以上前に飛ぶ。平安時代のこと。平将門がその武力でもって地元豪族とともに関東を制圧し、自ら『新皇』を名乗って東国国家を作ったが、一年経たずに朝廷に討伐されてしまったという『平将門の乱』があった。将門の遺体は京へ運ばれてさらし首になったが、その首が芝崎村(今の大手町)に運ばれ、村人は塚を作って弔ったのである。

時は流れて鎌倉時代、疫病が流行り、平将門の祟りに違いないと怖れていた村に、時宗の上人が通りがかり、では供養をしようってことで、『蓮阿弥陀仏』という法名を与えて塚の上に石塔婆を立て、近くの寺を時宗の念仏道場(芝崎道場。日輪寺)とし、鎮守であった神社に平将門公を神として合祀し(神田明神。神田明神も最初は大手町にあったのだ)、無事おさまったのである。

だがしかし、時は流れて大正時代。塚を壊してしまったのだ。すると関係者の死が続き、整地しようとするとブルドーザー横転事故が起き、これは祟りに違いないってことで、まわりがどれだけ開発されようとも、将門塚は守られてきたのである。

平将門って誰?平氏なの?

で、ここで『平将門』て平氏なの?平氏がなぜ東京に?と思うよね。

平安時代、桓武天皇のひ孫にあたる高望王が、『平』という姓を賜って皇籍からはずれ(つまり皇族ではなくなった)、国司として東国へ赴任した。普通は任期を終えたら京へ戻るのだけど、高望はそのまま土着。子供たちも上総・下総・常陸(まあ、今の千葉県と茨城県)などに広がった。その高望の孫のひとりが平将なのである。

ちなみに、平高望の長男の家系がのちの平清盛である。

平将門と大手町(芝崎村)って縁があったの?

平将門の事跡は『将門記』に細かく書かれているのだけど、彼の本拠地は下総国の豊田(今は茨城県の坂東市や常総市あたり)であり、今の東京あたりはほぼ出てこない。だからなぜ大手町に首塚があるのかは謎なのだけど、関東各地にいろんな将門伝承が残っている(将門は朝廷に反乱を起こしたヒーローだったのだ)のでそのひとつだったのだろう。

将門塚伝承がはっきりと形になったのは鎌倉時代。時宗の真教上人が供養をして石塔婆を建てたときだ。その石塔婆は失われたり壊れたりしたものの、古い記録を元に昭和になって復元された。

やがて江戸時代になる。将門塚があるのは江戸城の大手門からすぐの場所であり、幕府としては大事な場所なので信頼できる譜代大名を中心とした武家屋敷街にしたい。そこで、時宗の上人が作った念仏道場(芝崎道場。日輪寺)は西浅草へ移転(現存する)、将門公を祀った神田明神は湯島の方へ遷座、塚は動かせないのでそのまま武家屋敷内に残り、庭園の一部として使われたのだ。で、ここでこの連載的には江戸絵図が出てくるところなのだが、大名庭園の一部になっちゃってるので当時の絵図に将門塚は描かれてない。まあこの辺って感じで江戸切絵図をどうぞ。

江戸時代末期の大手町。赤く囲んだ『酒井雅楽頭』の屋敷に将門塚があった。

大正~昭和に相次いだ将門の祟り

将門塚の平和が破られたのは大正時代だ。明治になると、塚のあった屋敷跡に大蔵省が置かれ、庁舎が建てられたが、池と塚はそのまま残された。明治前期に作られた五千分の一の詳細地図を見ると、はっきりと庭園と塚が描かれてる。大蔵省に大名庭園、と思うと感慨深い。そして、当時の人たちは、故蹟保存碑を建て、塚とその伝承を後世に残そうとしたのである。素晴らしい。

明治前期の大手町。ちょっとわかりづらいが、大蔵省の中に池がぽつんとあり、その横に塚が描かれている(赤い○)。それが将門塚だ。『スーパー地形』の『東京測量図』より。
明治39年の故蹟保存碑。今でも将門塚の入り口に建っている。

だがしかし、大正12年に関東大震災が起きてしまい、大蔵省の庁舎も焼失し、仮庁舎が必要になる。同じ敷地に仮庁舎を建てるには池と塚がどうしても邪魔だ。そこで首塚を壊して整地してしまったのである。

これがまずかった。

2年後、大蔵大臣が急病で、その翌年工事部長だった人も死去。これは祟りに違いないと、仮庁舎を壊し、鎮魂祭をもよおして碑を建てたけど、話はそれだけで終わらない。

史蹟将門塚保全会が発生し、将門塚を保全!

昭和15年には落雷により大手町官庁街が火災、第二次大戦後は米軍が塚のあたりを駐車場にすべく整地しようとしたらブルドーザーが横転して運転者が亡くなるなど祟りが続いたのだ。そこで昭和34年に史跡に指定され、翌35年には『史蹟将門塚保存会』が発足し、将門塚は丁重に供養され保全されることになったのである。

以前の将門塚(2016年6月撮影)。後ろにある石灯籠は江戸時代には塚の前の常夜灯だったといわれている。

その後大手町がビジネスビル街になっても、将門塚の一角は保持され、2021年4月には『Otemachi One』と一体化して21世紀デザインの将門塚としてリニューアルオープンしたのだ。

そのデザインには賛否両論あるが、個人的にはこれはこれでアリだと思う。基本的な構造は昔と変わってないし、以前より明るく爽やかになった。そもそも、塚自体は関東大震災後に整地されて残ってないわけで、今あるのは『将門塚』ではなく『将門塚跡』なのだ。そうであれば、その一角を再開発するたびにその時代時代のデザインできちんと維持され、供養されていけばいいのである。

新しくなった将門塚(2021年5月撮影)。塚のデザインは変わらないが周りはすっかりキレイでモダンに広く明るくなった。

ちなみに、関東大震災時に塚の調査をしたところ、石棺が見つかったそうである(中身は盗掘されてた)。将門塚はもともと古墳だったのかもしれない。

と、将門塚の話だけで終わってしまった。でも平安時代の漁村が江戸時代には整然と区画が整理された武家屋敷街となり、明治になって官庁街となって将門塚が見直され、一帯が官庁街からビジネス街に変貌し、再開発されて高層ビルが林立しても将門塚は昔と同じ場所に存在し続けているのだ。すごいよね。

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荻窪圭 

flick! / ライター

荻窪圭 

老舗のIT系ライター、デジカメライターなるも、趣味が高じて『古地図と地形図で楽しむ東京の神社』(光文社知恵の森文庫)など歴史散歩本執筆や新潮社の野外講座『東京古道散歩』講師なども手がける。 https://ogikubokei.blogspot.com/

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