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荻窪圭のマップアプリ放浪「日本のすべての道路の起点『日本橋』とはどんなところなのか?」

みなさんは、どこに日本橋があるかご存知?

誰もが名前を知ってるけど、どこにあるかと言われるとなかなか答えられない日本橋。はじめて『日本橋』へ行ったとき、東京という塊のどのあたりに存在するのか、全然わからなかったもの。地下鉄で行ったのがいけなかったのかもしれない。地下鉄って目的地まで直行しちゃうと、地上に出たとき全体の位置関係がわやくちゃになっちゃう。

逆にJRの駅から歩くとわかりやすい。JRの路線って地図上でもはっきり描かれてるから位置関係を理解しやすい。

で、『日本橋』のJRの最寄り駅はどこか、というと『東京駅』である。東京駅の北西側が『大手町』で、北東側が『日本橋』なのだ。

東京駅と日本橋。こうしてみると東京駅を挟んで大手町・丸の内側が官庁・ビジネス街、日本橋側が商業地帯というのがなんとなくわかる。

官庁、ビジネス街と商業エリアの境

日本橋は江戸時代の江戸の中心地であり、江戸城から大手町を経由してすぐの場所にあったのである。でも両者は全然違う性格を持っていた。

今はJRの幅広い高架で分断されてるが、昔は堀で分断されてたのだ。

江戸時代は日本橋の少し西側で水路が十字路になってた。よく見ると南北の堀の内側は武家屋敷、外側は町屋と役割が大きく分かれていたのである。南北の堀の内側には『石垣』が描かれており、そこにかかる常磐橋と呉服橋の内側をよく見ると、枡形の門が描かれてる。石垣や門で区切られて、両者には露骨に違いがあったのだ。

逆に、南北の堀の外側をよく見るとすべて『~~丁』とある。これは『~~町』と読み替えてよい。『町』が付くのは町人のエリアという意味だ。だから、今でも大手町や丸の内は官庁・ビジネス街で、日本橋側は商業地帯なのだ。

江戸時代前期(1670年)の江戸絵図より。常磐橋や呉服橋の内側には門があり、そちらは『江戸城の内』で武家屋敷エリア、外側は門はなくすべて町人のエリアだ。『寛文江戸大絵図』(国立国会図書館デジタルコレクション)より。
大正時代の日本橋の地図。少しは現代とつながっているのでわかりやすいかと思う。呉服橋以南はすべて埋められて残ってない。

町人が集まり物資が行き来する大商圏だった

さて、『日本橋』は『橋』である。江戸時代、五街道の起点としてよく知られている橋で、前述したようにほぼすべて町人エリア。当時の商業の中心でもあった。舟で運んできた物資を水揚げし、そこで商売が行われたのである。

そのひとつに呉服店『三井越後屋』(1673年創業)があった。これは今の『三越』である。今でも当時の場所近くに三越日本橋本店がある。隣には三井本館(1929年竣工)。三井本館の裏手には日本銀行だ。

日本橋室町。右手の大きくいかめしいビルが『三井本館(1929年竣工)』、その奥にあるのが『日本橋三越本店』(1914年竣工ののち、何度も増改築が行われている)。

ほかにも鰹節の『にんべん』は1699年創業の超老舗。さらに鰹節と乾物を商う八木町本店は1737年創業である。

もともと煎茶商として日本橋に創業した『山本山』は1690年。のちに海苔も扱うようになり、今は海苔の方が有名かも。

焼き海苔で有名な『山本海苔店』は1849年創業。

フルーツパーラーで有名な千疋屋総本店は1834年創業。創業者が埼玉県千疋村(今の越谷市)出身だったので千疋屋。日本橋室町に移ったのは幕末の1867年でなんと洋館三階建。日本初の果物専門店となった。

江戸時代創業のいくつもの老舗が21世紀になっても同じ場所で商いを続けてるというのは日本橋の凄さだ。

複雑な四層構造で首都高の日陰に

はじめて日本橋を渡ったときの印象は『なんか暗いぞ』だったんだけど、それはすぐ真上を首都高が通ってていて、いつも日陰だから。

日本橋あたりの首都高は将来地下化されるのだが、明治44年にかけられた石橋のすぐ上を高度成長期の首都高が横切り、石橋の下を江戸時代の物流拠点だった川が流れており、その下は戦前に開業した東京メトロ銀座線が通っているという四層構造が実に面白いし、日本橋+首都高という構造をすでに見慣れてる上に実に『東京らしい』光景だと思うので無理に地下化しなくてもいいよな……という気はしてる。

日本橋川から見た日本橋。日本橋にある船着き場から出航する『日本橋クルーズ』から。このクルーズ、おすすめ。首都高が陽射しを遮るため日中でも暗いのがよくわかる。

人工的な日本橋川。いつ掘られたかは分からない

日本橋は日本の道路の基点であり、今でも中心に道路元標が埋め込まれている。

で、最初の日本橋がいつ架橋されたのか、というと、徳川家康が征夷大将軍になり、江戸幕府を開いた1603年とされている。実際には同時代の資料がなくてはっきりしたことはいえないようだが、まあその頃に五街道が定められたのだ。日本橋から北へ向かうのが日光・奥州街道と中山道。南へ向かうのが東海道と甲州街道だ。

日本橋の下を流れている川は『日本橋川』……なんだけど、実は日本橋川と名づけられたのは明治時代。江戸時代は特に名前がついてなかったらしい。しかもこの川、人工の河川なのである。地面を掘って人工的に水路を作ったのだ。それは確か。地質を見ても、日本橋川の流路はめちゃ不自然だ。砂丘や砂州だった場所を川が横切ってるのだ。自然に川ができたとしたら、こんな風にはならない。

『スーパー地形』で『治水地形分類図』を表示。日本橋川の流路が非常に不自然のがわかる。人工の流路だからだ。

これは江戸城の前から日比谷に流れていた川を治水や水運のために隅田川河口方面へ流路を変えた名残なのだが、この流路がいつ作られたのかは分かってない。今のところ有力な説は、室町時代(太田道灌が江戸城を作った頃)、戦国時代(小田原北条氏が江戸を領していた頃)、江戸時代直前(徳川家康が江戸に入った1590年から幕府開設までの間)の3つある。

徳川家康がこの川を江戸城内堀までつないで江戸城への物資搬入に使ったのは確かなようだ。しかし、その元になるこの流路がその時のモノか、それ以前なのかはわからないのだ。いつ掘られたかわかってない人工河川の上に日本の元標である日本橋がある、ってのもなんだか面白い。

まあ、川があったとして、ここに街道の基点として日本橋を架橋したのはなぜか。

ひとつは、治水地形分類図を見るとわかるように、『砂丘・砂州』で昔から陸地だった場所だから。地盤が比較的安定しており、ほんの少し標高も高いので街道を敷くにはちょうどいい。逆に地盤が良くないところは大名や寺院に与えてそれぞれに対応させた。

もうひとつは日光・奥州街道として使われた今の『本町通り』。ここ、江戸時代以前から商売で賑わっていた街道だったそうで、日本橋からほど近い場所。江戸時代、さらにL字型の堀を設けて物流の拠点として江戸を発展させようと考えたのだろう。

日本橋の真ん中が『道路元標』の地点。その真上、首都高の高架にかつて置かれていた道路元標のレプリカがある。

日本橋は昔から商人のエリア。その伝統は続く

現在の日本橋は、部分的には『コレド室町』などめちゃモダンな一角に生まれ変わっているけど、本来日本橋は歴史ある商人のエリアなのだ。

江戸時代、武家屋敷があったエリアはひとつひとつの武家屋敷は広大な敷地を持っていたため、その土地の広さを利用して官庁やオフィスビルが建てられ、今の丸の内や大手町となった。JRの東側にある八重洲や日本橋側は町人のエリアだったため、ひとつひとつの土地が狭く、明治以降に土地をまとめて大きなビルや商業施設ができたものの、丹念に歩くと昔ながらの狭い土地で商売している店や小さなビルが残っている。

大手町・丸の内・日本橋と隣接するエリアを見てきたけど、隣接してるのにテイストが全然違うという面白さがあるので、両方を歩いて体感してもらえると良いかと思う。

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PROFILE

荻窪圭 

flick! / ライター

荻窪圭 

老舗のIT系ライター、デジカメライターなるも、趣味が高じて『古地図と地形図で楽しむ東京の神社』(光文社知恵の森文庫)など歴史散歩本執筆や新潮社の野外講座『東京古道散歩』講師なども手がける。 https://ogikubokei.blogspot.com/

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