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荻窪圭のマップアプリ放浪「桜の名所『飛鳥山』はなぜ、独特の地形なのか?」

道が激しくカーブする独特の地形はなぜ?

東北・北陸新幹線に乗るときはE席がお気に入りである。北に向かうときは左端の窓際、東京に戻るときはその逆。上野ー赤羽間の車窓が楽しいのだ。切り立った崖がしばらく続くさまがいいのである。新幹線は高架を走るのでより分かりやすいのだ。

どんな地形なのかは標高別に色分けした地形図を見ると一目瞭然だ。ゆるやかにカーブした崖下に沿って線路が敷かれているのである。

飛鳥山周辺の地形図。薄青(5mくらい)、緑、(20mくらい)の順で標高が高くなる。石神井川は飛鳥山下のトンネルを抜けて低地に注いでいる。『スーパー地形』より。

実はこれ、縄文時代の中期ごろ(約7000年前)、海水面が高かったころに海が削った崖だ。上野から北に向かって崖を追っていくと、一カ所、めちゃめちゃ不自然なところがある。それが王子神社と飛鳥山の間の分断だ。江戸時代は『音無渓谷』として有名だった。

ここの注目ポイントはふたつ。

ひとつは歴史的行楽地であること。今でも飛鳥山は桜の名所として、大河ドラマの主役となった渋沢栄一邸跡としても有名で、大正時代に建てられた洋風茶室や渋沢資料館がある。

もうひとつは地形。そもそも、本来はつながっていたはずの台地がなぜ分断されたのか。今回はその理由を追いかけてみたい。

王子駅北『北とぴあ』展望フロアからの飛鳥山。低地、JRの高架、飛鳥山と高くなっていく。
飛鳥山の標高25.4m。高低差があるので数字より高く感じる。江戸時代からの人気行楽地だ。

縄文時代の河川争奪が今の地形に影響

ちょっと俯瞰して見てみると、西の方から飛鳥山に向かって川が流れている。石神井川である。小金井市や練馬区の方から遠路はるばる流れてきて、北区あたりではけっこう深い谷を作っている。江戸時代は有名な滝があったくらい。そして王子神社と飛鳥山の間の狭い渓谷を抜けて隅田川に流れ込んでいる。

ここがヘンである。そもそも地形的に王子神社と飛鳥山の間はつながっていたはずだ。そして飛鳥山の西側がずっと南に向かって谷地になってるところをみると、石神井川は飛鳥山手前で南に流路を変えてたはずなのである。そして不忍池に注ぎ込んでいたのだろう。

ってことは、どっかの段階で台地の狭いところをぶち抜いて流路が変わったのである。

それはいつか。

かつて、中世のころに台地を削って人工的に流路を変えた説があった。このあたり、南北に街道が通っていたので、防御のためにそうしたという考えだ。流路変更でできた渓谷がいい感じに敵の邪魔をしてくれる。

でも今は自然に台地の狭いところが崩壊して流路が変わったことが分かってる。海水面が高かった約7000年前(縄文時代なので縄文海進と呼ばれる)、今の東京低地は海であり、武蔵野台地の端を波が削っていったのである。そして石神井川が大きくカーブしてるところが外側から削られてぐぐっと薄くなり、川がそこを貫いて隅田川方面へ流路を変え、渓谷ができたのだ。

なんと縄文時代の流路変更だったのである。めちゃめちゃ昔の話だ。

石神井川はもともとこの青い線のルートを流れていた。

で、もともとの下流はどうなったかというと、周辺の湧水を集めて流れる小さな川となり、江戸時代は藍染川と呼ばれ、今は暗渠となっているのである。ちなみに、石神井川の流路は昭和になってさらに変えられた。渓谷は親水公園となり、川の本流は飛鳥山の下をくぐるトンネルになったのである。

熊野由来の神社や名前が残る不思議

その石神井川は渓谷をまっすぐに抜けて隅田川に流れ込むのだけど、どうしても台地と低地の間に高低差はある。だからかなりゴウゴウと音がしてうるさかったはずだ。でもその渓谷の名は『音無渓谷』。川は『音無川』。なぜうるさいのに音が無いのかというと、熊野にある『音無川』にあやかったからだ。

江戸名所図会に描かれた音無川。堰があり、高低差が分かる。左側が飛鳥山(坂道沿いに茶店が並ぶ)、右が王子神社側(王子神社の別当だった金輪寺が描かれている)。

飛鳥山の由来は、中世のころそこに『飛鳥明神』が祀られていたから。飛鳥明神は熊野にある『阿須賀神社』のこと。熊野川河口近くに鎮座する。

さらに音無渓谷を挟んだ反対側の高台にある王子神社。これも熊野由来。熊野の若宮である若一(にゃくいち)王子を祀ったものだ。全部熊野神社がらみなのである。

平安時代末期からこのあたりを領していた豊島氏が領地を熊野神社に寄進し、鎌倉時代に若一王子を勧請したのである。中世のころ、東国武将の間で熊野信仰が大流行した名残だ。

とまあそういう信仰の土地だったわけだが、それが大きく変わるのが江戸時代。1633年に荒廃していた王子権現(王子神社)を修復したおり、飛鳥明神をそちらに移し、飛鳥山の名だけが残ったのである。

飛鳥山を桜の名所にしたのは徳川吉宗

さらに熊野神社がある紀州出身の八代将軍吉宗がこのあたり一帯を整備し、桜の木を数千本植えさせて庶民の行楽の地とした。飛鳥山(と庶民の花見)の原点は徳川吉宗にあったのだ。

飛鳥山と音無渓谷の賑わいは江戸時代から大変なものだったようで、浮世絵にも描かれてるし、江戸名所図会でも大きく取り上げられている。江戸名所図会には、飛鳥橋のあたりは料理屋が多く、終日流れに臨んで宴を催し泥酔する人も多い、とある。そのひとつである『扇屋』は今でも同じ場所に玉子焼き専門店として商いを続けていてすごい。ここの玉子焼きは(けっこう甘いけど)絶品だ。

広重の江戸高名会亭尽より『王子』。音無川と川沿いの茶店が描かれている。右上には『扇屋』の文字が。国立国会図書館蔵。

製紙会社ができたのも豊富な水があったから

明治時代になると、石神井川沿いに渋沢栄一が『抄紙会社』(のちの『王子製紙』)を創業。豊富な水が必要な事業なのでそこが選ばれたのだろう。大蔵省(当時)印刷局もその隣にある。そして飛鳥山の南東部に渋沢栄一邸が建てられた。渋沢栄一邸跡には大正時代の洋風茶室など2つの当時の建物と、新しく建てられた渋沢栄一資料館があり、大河ドラマの影響で賑わってる(と思う)。

王子・飛鳥山編の最後は街道の話。

飛鳥山前の本郷通りは音無橋で渓谷を渡り、王子神社前を抜けていくのだが、この道の元になったのは江戸時代の日光御成道(岩槻街道とも)。将軍が江戸から日光へ向かうときに使った道だ。

で、この渓谷はけっこう深くて交通の邪魔。そこを渡る音無橋はけっこう古いのだがそれでも昭和6年1月竣工。橋がない当時はどうやってこの渓谷を渡っていたのか。

明治の地図を見ると分かるのだが、飛鳥山を回り込むようにいったん低地へ降り、そこで川を渡って王子神社の北側を上っていたのである。このあたりを通る人は誰しもここで高低差を味わい、渓谷を愛でていたのだ。

明治前期の王子。赤い線が日光御成道。飛鳥山を回り込むように低地に下り、飛鳥橋で川を渡ってまた台地に上っているのがわかる。『東京時層地図 for iPad』(日本地図センター)より。
明治のおわりの飛鳥山。大きく渋沢邸が描かれており、彼が興した製紙会社が石神井川沿いにある。『東京時層地図 for iPad』(日本地図センター)より。
昭和6年1月竣工の音無橋。この橋ができるまではいったん低地に下って川を渡ってからまた上っていた。

かくして、縄文時代に自然にできた渓谷のおかげで江戸時代以降、渓谷と桜を楽しむ風光明媚な一帯がずっと続いてい飛鳥山と王子。

渓谷は紅葉も悪くないので渋沢栄一目当てで訪れる人もぜひ周辺の散策をおすすめしたい。

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PROFILE

荻窪圭 

flick! / ライター

荻窪圭 

老舗のIT系ライター、デジカメライターなるも、趣味が高じて『古地図と地形図で楽しむ東京の神社』(光文社知恵の森文庫)など歴史散歩本執筆や新潮社の野外講座『東京古道散歩』講師なども手がける。 https://ogikubokei.blogspot.com/

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