荻窪圭のマップアプリ放浪「なぜ、吉祥寺は『吉祥寺』とまったく違う場所にあるのか?」
荻窪圭
- 2022年02月25日
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お寺の吉祥寺は文京区駒込にある
20代の頃、中央線沿線のアパートに住み、中央線沿線の大学に通っていた身としては、遊びに行く、飲みに行く、買い物に行く、合コンに行くといえば、まず吉祥寺だった。たまに訪れると当時通った喫茶店がまだ生き延びてたりしてなかなか感慨深い。
だからかなりなじんでたはずなのだけど「吉祥寺に吉祥寺がない」と知ったときは衝撃だったのである。え、そういうお寺があったから地名になったんじゃないの? あ、昔あった吉祥寺というお寺が無くなったけど地名だけ残ったパターン?
いや、そもそもそこに吉祥寺という寺はなかったのだ。じゃあどっから吉祥寺って地名が出てきたのだ?
たしかに吉祥寺という寺はあった。今でもある。ただし、その場所は文京区本駒込なのだ。全然違う場所じゃないか。つまり、東京には(地名や駅名の)吉祥寺と吉祥寺(というお寺)があり、吉祥寺(というお寺)は(地名としての)吉祥寺にはないのだ。誰かこれを分かりやすく伝わるように言ってくれ。
お寺は家康の指示で移転。門前町の人たちはどこへ?
何はともあれ、そこを解き明かさないと小骨が喉にひっかかったようでうまくないから、吉祥寺の歴史である。
まず、吉祥寺という室町時代創建の寺が江戸にあった。それが江戸城のすぐ近くだったので、徳川家康が江戸に入ってすぐ、江戸城拡張の邪魔ってことで移転させられた。その場所は今の水道橋あたり。江戸時代前期の江戸絵図を見ると、ちゃんとそこに『吉祥寺』とある。
でも『明暦の大火』と呼ばれる大火が江戸を襲って江戸城天守や吉祥寺を含むかなりの範囲が焼けちゃった。こりゃまずいってんで、江戸の大改造が始まった。それに伴って吉祥寺は移転することになったのである。それが今の文京区本駒込。大きな寺域を持つ曹洞宗のお寺で、江戸時代はしだれ桜の名所として有名だった。今でも春になるとしだれ桜が参道を彩ってくれる。
で、その一帯を火除け地にするということで吉祥寺門前に住んでいた人たちも立ち退きを命じられ、ほぼ何もなかったであろう武蔵野の土地に移住することになったのだ(1659年)。
吉祥寺門前の人たちが移住してきたってことで吉祥寺村となった。それがお寺とは関係ないとこに吉祥寺って地名ができた理由。なんともややこしい。ほんとに何もないとこに移住させられたんだなあと思う。
五日市街道沿いに吉祥寺村ができたわけ
では、なぜ門前の人たちはそこに移住することになったのか。
吉祥寺(になった場所)は、火山灰の関東ローム層が分厚く覆っていて水の便が悪く、人が住むには向かない土地だったのである。でも幕府としては武蔵野に街道を通し、街道沿いに集落を作って武蔵野を開発したい。そんなわけで、五日市街道沿いのこの地が移住先に選ばれたのだ。
そもそも不毛の土地だったので、街道に対して垂直に地割りがなされ、そこに人が住むことになり、畑を耕しつつ街道の世話をすることになったのである。明治時代初期の地図を見ると、吉祥寺って五日市街道沿いに小さな集落があるだけの場所ってのが分かる。
五日市街道と井の頭池の間に、中央線吉祥寺駅が
それを変えたのが鉄道だった。中央線(当時は甲武鉄道)が走り、吉祥寺駅が吉祥寺村と井の頭池のちょうど中間という良い場所に設置されたのだ。
JR中央線は東西にまっすぐ走っている。そこから北へ延びる道がほぼ線路に対して斜めになっているのは江戸時代の地割りの名残なのだ。五日市街道自体が鉄道に対して斜めに走ってるからね。そこを意識して吉祥寺駅北口をぶらぶら歩くと楽しい。
鉄道をきっかけに駅前が住宅地になり、大正14年に井の頭池周辺が井の頭恩賜公園として公開され、北に商店街、南に井の頭公園+弁財天という今の吉祥寺の原型が作られて発展した。駅の立地がよかったのだね。だから多くの人にとって吉祥寺の商店街と井の頭公園を合わせて『吉祥寺』という認識だ。
だがしかし、もともと両者はセットじゃない。今でも吉祥寺は『武蔵野市』、井の頭公園は『三鷹市』と別の市だし、江戸時代は、吉祥寺は『吉祥寺村』、井の頭池は『牟礼村』だったのである。
井の頭は武蔵野の貴重な水源だった
井の頭公園の中心にあるのが井の頭池。神田川の源流だ。江戸時代は江戸に水を提供する神田上水として使われたので、非常に重要な場所だった。
『井の頭』と命名したのは徳川家光(この将軍はいろんなものの名付け親になってる)。井の頭池のほとりには家康が御茶を点てるのに使ったという井戸が残ってるし、井の頭池の裏手は御殿山といって将軍の鷹狩りの御殿もあった。さらに水の便が悪い武蔵野にあって数少ない大きな湧水地のひとつであり、縄文時代の遺跡も見つかっている。
江戸時代は江戸の上水の水源であり、自然に恵まれた行楽地でもあり、いたるところに井の頭弁財天への道を示す道しるべが立てられてたし、江戸の地誌にもイラスト入りで紹介されている。
井の頭池のあたり、地形好きの間では『標高50mライン』と呼ばれている。武蔵野は標高50mあたりで水が湧き、いろんな川の水源になっているからだ。井の頭池以外では、石神井川の三宝寺池、妙正寺川の妙正寺池、善福寺川の善福寺池がある。
特に七つの湧水ポイントがあって『七井』とも呼ばれていた井の頭池を水源とする神田川は妙正寺川や善福寺川が途中で合流するため水量が豊富で、神田上水として使ったのは納得できる。
縄文時代から人が住んでいた井の頭池には弁財天が建てられた
そんな重要な場所なので、神仏も欠かせない。源頼朝が祀ったという伝承を持つ井の頭弁財天である。江戸時代の絵には鳥居も描かれているが、神社ではなく天台宗の寺院だ。
江戸時代、井の頭弁財天へ参拝する道は2つあった。ひとつは五日市街道から今の吉祥寺通りを南下する道。武蔵野八幡宮の前に道標も立てられていた。
もうひとつは江戸からのメインルートで、人見街道や甲州街道から北上する、南からの参道。こちらにも各所に道標が残っており、黒門(江戸近郊道しるべでは『大門』とある)と呼ばれる鳥居をくぐって崖の上から弁財天へ降りる。江戸近郊道しるべには2本の参道が描かれている。大きな鳥居が残っていることや弁財天の向きからいって、こちらが表参道だ。
縄文時代から人が住んでいた貴重な水源だった井の頭池と、不毛な地に江戸時代に入植した吉祥寺村。その中間に作られた駅で両者は結びついたが、歴史を頭に入れて訪れると、整然とした商業地の北口と、雑然とした行楽地の南口の違いが感じられてより面白いのである。
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