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<エベレスト三冠王> 加藤保男 【山岳スーパースター列伝】#49

文◉森山憲一 Text by Kenichi Moriyama
イラスト◉綿谷 寛 Illustration by Hiroshi Watatani
出典◉PEAKS 2018年4月号 No.101

 

山登りの歴史を形作ってきた人物を紹介するこのコーナー。
日本のヒマラヤ登山全盛期に、「ミスター・エベレスト」と称されたのがこの人だ。

 

加藤保男

これまで(注・2017年)、エベレストに登ったことのある日本人は、のべ人数で227人とされている。このなかには複数回登頂を果たした人も多く含まれているので、実人数としてはもっと少ない。

日本人初登頂は、1970年の松浦輝夫と植村直己。そして1973年に日本人として第4登を果たしたのが、今回の主役、加藤保男である。

世界最高峰のエベレストといえど、日本人だけでも227回も登られ、世界全体では6,000回を超す登頂が記録されている。こうなると、「最年長登頂」とか「タレントとして登頂」などの付加価値でもないかぎり、もはや登頂自体にニュース性はほとんどなく、実際、毎年の登頂者の名前を言える人などほとんどいないだろう。

しかし1973年当時では事情がまったく異なる。それまでに日本人は3人しか登っていなかったことが示すように、エベレスト山頂は到達が極度に困難な場所であり、しかも、加藤の登頂は世界初となる秋期登頂であり、当時の世界最年少登頂でもあった(24歳)。加藤保男の名は多くの日本人が知ることになったのである。

この登頂で重い凍傷を負った加藤は、苦しいリハビリを経て、7年後の1980年に再びエベレスト山頂に立つ。このときは、最初の登頂とは逆側、つまり中国側から登っている。加藤は、ネパールと中国、異なる2ルートからエベレストに登ったことがある世界初の人物となった。

ちなみに、2番目に両ルートの覇者となったのは、かのラインホルト・メスナー。さらにいえば、加藤の2度の登頂の間の7年間にエベレストに登った日本人は、田部井淳子ただひとりしかいない。これらの事実からしても、加藤の成し遂げたことの大きさがわかろうというもの。このときの登山は、新聞などの報道のほか、テレビ番組にもなって、加藤の人気は爆発した。

現在では、ヒマラヤ登山家が国民的ヒーローとなるのは想像できないが、当時の加藤はまさにそれ。ヒーローでもあり、アイドルでもあった。なにしろ、文句のない実績を残したうえに、「登山家を引退したら俳優になればいい」といわれたほど加藤は美形であった。鋭さと甘さをあわせもった登山家離れした風貌に加えて、180cmの長身。女性人気はすさまじく、サイン入りワインが販売されたり、「加藤保男と行く○○ツアー」なども企画され、参加者のほとんどは女性であったりしたという。

オリンパスのカタログに起用されたのもこのころだ。オリンパスカメラの広告キャラクターといえば、女優の宮崎あおいが有名である。40年前には、そこを登山服姿のイケメン山男が飾っていたのである。現在とは時代が違うとはいえ、加藤は希有なスター性をもった登山家だったのだ。

当時は、メスナーが人類初の8,000m峰無酸素登頂やソロ登頂を成し遂げ、ヒマラヤ登山の最先端を驀進中であった。加藤は、メスナーに強いライバル意識を抱き、周囲からも、メスナーに対抗できる日本人がいるとすれば、それは加藤しかいないと期待されていた。

1982年の年末、加藤は、冬期エベレスト登頂を企画する。エベレストが冬に登られたのは、それまでにわずか1回。加藤が成功すれば、春・秋・冬の3シーズンに登頂を果たした世界初の人物となる。

「エベレスト三冠」と銘打ったこの登山に、加藤はまたしてもあっさりと成功。しかしその下山途中、ベースキャンプと元気に無線通信を交わしたのを最後に、行方を絶ってしまう。そして現在に至るも、加藤の遺体は発見されていない。

加藤の遭難の翌年、山学同志会隊などが日本人初のエベレスト無酸素登頂を果たすが、以降、先鋭登山の場としてのエベレストは急速に輝きを失っていく。ここから国民的ヒーローが現れることはなくなり、エベレストに加藤ほどの情熱を傾ける登山家もいなくなった。エベレストは先鋭登山家の挑戦の対象というよりも、ガイド登山の隆盛によって大衆登山の場となった。

エベレストが人類の挑戦の場として輝いていた時代は、登山家・加藤保男が輝いていた時代に一致する。加藤の遭難とともに、エベレストもひとつの時代を終えたのだ。

 

加藤保男
Kato Yasuo
1949~1982年。埼玉県出身の登山家。兄の加藤滝男の影響で、高校時代に登山を始める。ヨーロッパアルプスで本格的な登山の経験を積み、ヒマラヤ初見参のエベレストで当時の世界最年少登頂を達成。1980年には中国側からの登頂も成功させるが、3度目の挑戦となったエベレストで、登頂直後に行方不明となる。

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PROFILE

森山憲一

PEAKS / 山岳ライター

森山憲一

『山と溪谷』『ROCK & SNOW』『PEAKS』編集部を経て、現在はフリーランスのライター。高尾山からエベレストまで全般に詳しいが、とくに好きなジャンルはクライミングや冒険系。個人ブログ https://www.moriyamakenichi.com

森山憲一の記事一覧

『山と溪谷』『ROCK & SNOW』『PEAKS』編集部を経て、現在はフリーランスのライター。高尾山からエベレストまで全般に詳しいが、とくに好きなジャンルはクライミングや冒険系。個人ブログ https://www.moriyamakenichi.com

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