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ジェリーロペスが語る「バド・ブラウン」との物語|PART1

サーフィンの神様とまで言われ、世界中から尊敬を集め慕われ続けるジェリー・ロペス。そんな彼は、ストーリーテラーとしても貴重な存在である。めったにメディアには出てこないが、サーフィンの歴史に大きな影響を与えたサーファー達や海から学ぶ様々な教えを、シンプルな文体で私達に伝えてくれる。早速、その物語に耳を傾けてみよう。
◎出典: NALU(ナルー)no.120_2021年4月号

多くの人に愛されたバド・ブラウン

バド・ブラウンを友達に持てたことは私にとって本当に輝かしい幸運だった。彼はもうすでに他界してしまったけれど、エキサイティングな出来事が満載だった96年間の人生を送り、多くの人に愛され、普通の人が何人かかっても成し遂げられないほどの功績を残した。
マサチューセッツ州で生まれた彼は小さい時から水と親しんでいたに違いない。1931年に彼は南カリフォルニアに引っ越し、USC(南カリフォルニア大学)に通い、水泳部のキャプテンとして活躍した。また第2次世界大戦勃発で海軍に入るまでの短い期間、ヴェニスビーチのライフガードもやっていた。
大戦中、彼は海軍兵たちに泳ぎ方を教えるために多くの時間を水の中で過ごした。戦後ライフガードの仕事に戻ったが、そこで彼はボディサーフィンの上手さ、そして泳ぐスピードの速さ、そして体型が細くて長いところからバラクーダというニックネームで呼ばれるようになった。

デューク・カハナモクとの最初の映画作り

彼はボディサーファーを撮影し始めたが、その後すぐハワイにサーフトリップに行き、そこで以前に競泳の大会などで知り合い、親交のあったデューク・カハモナクを撮影したりするようになった。それが1953年に発表した彼の最初の映画『ハワイアン・サーフ・ムービー』だった。
その先10年、彼は毎年新作映画をリリースした。ディレクター、プロデューサー、撮影、編集、そしてその映画を見せるために全国各地の映画館を借り、プロジェクターを回し、それぞれの開催にその場で自分でナレーションまでしていた。すべて一人でやってのけていた。

サーフィン映画というカルチャーを作り上げた男

バドはサーフフィルムというジャンルを開拓しただけではなかった。彼は’60年代から’70年代にかけて急速に増えていった世界中のサーファー達が大切にし、心待ちにするカルチャーを作り上げたのだ。サーフィン映画を観に行くという行為は若いサーファーにとって自分の人生における最も大きなイベントと言えるほどのインパクトがあった。ただ仲間で集まるというだけでなく、映画を観に行くことは本物のすごいサーファー達、波にしっかり乗れて、堂々とスタイリッシュに波に乗る様子、同類のサーファーとの親交を深めること、そして何よりサーフィンやサーファーがものすごい勢いで開拓していた新しい境地を知るというスリルと興奮が保証されていた。
これは私自身の経験から語っているのだが、映画に通いだしたのはごく小さい頃からだった。父は私と弟を島の高校のホールなどで上映されるありとあらゆるサーフィン映画に連れていってくれた。上映会に集まってる観客の行動やキャラクターが自分の子供達の見本にならないんじゃないかという気分になった時は父は無口になった。大体において、サーファーというものは、特に年配の連中はたまに犯罪になるかならないかのボーダーラインの行動をしたし、うるさくて無礼だったり、アンチソーシャルな輩が多かった。
親は子供がサーファーになることを嫌がった。しかし私の両親はすすめることはなくても寛容的な方だったと思う。

ジェリー・ロペスも夢中になった映画の世界

しかし私が運転免許を取るまで、あるいは運転できる友人ができるまでは父がどこに行くにもビクターと私に付き添った。とにかく私も弟のビクターもサーフムービーが見せてくれる魅力的でミステリアスで急速に広がってるサーフィンの世界に夢中だったから。
そしてホールの明かりが消され、フィルムが回り始めると、映像が映し出されるまでうるさい話し声は一気に止まったものだった。そして映像が出てきた途端また下品な掛け声や口笛が湧き上がり、ソーダやビールが飛んできた。残念ながら’80年代になってビデオカメラが出てきたことで、この空気を味わう経験は少なくなってしまい、最終的には消滅していった。この経験が人生の大きな部分であると感じている私にとってぽっかり穴が空いた気持ちではあった。
しかし上映されていた期間の私たちに与えたインパクトは世界共通のものであり、上映会の翌朝は決まって私たち兄弟、そして仲間みんなが海に行って映画の刺激で思い切り波乗りがしたくてたまらなくなっていた。
これがまさにサーフムービーが上級者であれ、始めたばかりであれ関係なく、すべてのサーファーに与えた効果だった。そして期間はそれほど長いものではなかったにしろ、サーファー一人一人の人生にインパクトを与えたサーフフィルムを観るというカルチャーが、一人の気取りのない謙虚で物静かなバド・ブラウンから始まったということは驚くべき功績だと言えるだろう。

泳力に優れたバド・ブラウンだからできたこと

バドは海の中で完全に自由だった。彼の撮影における強みは、当時撮影をしていたグレッグ・ノール、ジョン・セバーソン、ブルース・ブラウンなどのムービーモーグルたちよりもはるかに泳力に優れていたことだ。そのおかげでサーファーたちを誰よりも近いところで水中撮影することができた。また道具に関しても、ウエットスーツ、カメラのハウジングなどもすべて自作で、見かけは奇妙で継ぎ接ぎだらけだったとしても彼にとって非常に使いやすく改良され効率的なものばかりだった。

ジェリーロペスが語る「バド・ブラウン」との物語|PART2

ジェリーロペスが語る「バド・ブラウン」との物語|PART2

2021年11月13日

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FUNQ NALU 編集部

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テーマは「THE ART OF SURFING」。波との出会いは一期一会。そんな儚くも美しい波を心から愛するサーファーたちの、心揺さぶる会心のフォトが満載のサーフマガジン。

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